st とは何なのか? その7 常識を疑ってみる
こんばんは。karada89です。
久方ぶりに書いてます。私の日常はいたって変わりなく過ぎていってます。
臨床にてFTを使用していかに楽して治すか。
もうこれに尽きます。その毎日。
入江式FTを使って治療していますが、入江式のマニュアル診断を忠実に行う時間的な余裕がありません。そして入江式の診断方法のみだと取り切れない症状があまりにも多い気がします。ですので時短と治療効果の向上をもとめて試行錯誤しています。
そのような形で自分なりの考え方でstを追い求めていたら、今のところ自分が一体どこにいるのかわからなくなっています。答えに近づいてるのか遠のいているのかわかりません。
ただ技術的には焼鍼を使うことが多いですね。刺さないし、お客さんも治療してもらっている感がありますし便利ですね。治療効果もよくでます。
IPは置鍼してやる分にはいいんですが、ツボによっては鍼を刺すには敏感な場所もあるし、だからといって接触IPだと治療してもらってる感が少ないようです。劇的な効果が出る方はその限りではないんでしょうけどね。
話は変わりますがこの夏頃、私は大きく体調を崩してしまいました。左の眼球のひどい痛みと激しい頭痛に襲われ、特に最初の2日間は一睡もできないほどでした。自分が病気の時にFTで検査するのって非常に体力というか気力を消耗するので疲れるんですけど、このときは何とか治りたくて自分で必死で診断しました。
結果的に入江式に接触でIPをつないで治療しました。その結果つないで5分もしないうちに寝ていました。痛みもほぼ取れて一安心しました。こういう結果をみると入江式FTすげーってなるんですけど、お客さん全員にこのすげーを体感させるには至りません。
過去に妻のインフルエンザを入江式IP治療でやはり即治させた経験が何度かあるのですが、急性症状で症状が強く出ている風邪なんかは患者からでている反応がすごく捉えやすくて入江式のマニュアルに沿って治療していくと本当によく治るなあと体験しました。
過去に繰り返し書いてますけど、FTで治療するばあい
「st を sm にする。」
というのが前提です。
というこは、stがまずないとsmにできないんです。
上記の風邪の時みたく、きちんと講習で習った通りの反応ならわかりやすいのですが、臨床だと、とくに整形外科的な疾患だとわかりずらいです。私だけかもですが。
以前にstとはなにかを考察してきて中間報告を書きました。
日々の臨床でこの報告はやっぱり間違ってないと考えている反面、逆にこの報告は早計だったのかもと不安になるときもあります。
ただ単に自分のFTの感度が悪いだけで主訴部には必ずstが出現してるって先生方もおられるはず。stがないからほかのところを治療して回復力を強化すればstが出現するとか回りくどいことを言うのはFTが下手なのを言い訳しているだけなんじゃないか。そう考えてしまう時もありますね。実際そうかもしれないし(笑)
今回stについてこんなに迷っている文章を上で中間報告を書いてしまったという事も有りいろいろ試した結果、治癒力を強化しているかはわかりませんが、stが検出できなかったところに検出できるようには大分なってきました。
そうなった経緯に手背センサーの定義を見直したことにあります。
上記二つの記事も確定事項として発表してるわけではないのですが、
手背センサー = 寒邪
を疑うようにしてからは治療成績が上がっています。詳細は書きませんけども。
症状の意味について思う事 その1
こんばんは。karada89です。
今回は症状について思うところを書いてみます。
日々来院される患者さんは医療機関に何をしに来ているのか?実はそれは人それぞれだったりするのですが、わたしとしては来院される目的は今ある症状をとりに来ている、のだと信じています。
もう少し言うと 自覚症状 を取り除きたい。それにより
不快 ➡ 快
不安 ➡ 安心
こうなりたいはず。
その自覚症状というのを手っ取り早く取るものの代表的なのは「痛み止め」ですね。痛み止めは痛みに対してですが痛み以外の症状を止めるものとして、解熱剤とかステロイドとか。
自覚症状というのは実際に自分で感じている症状の他に健康診断などの検査数値などもあると思います。例えば高血圧とかコレステロールとか体温とかそういう数値も個人的には自覚症状に含まれると思ってます。何故ならば患者さんの健康に対する知識(思い込み)が良くも悪くも昔に比べて深まっているからです。検査結果による数値をみて不快や不安になったりする。逆に数値をみて安心したりもする。数値が感情を不安定にさせる。
セルフケアという意味合いで患者さんの医学的知識が高まるのは大変良いことだと思います。しかし物事の本質をみるというスタンスがないと検査結果に心が乱されることになり兼ねません。
例えば高血圧を取り上げてみます。
現在血圧の正常値は上が140mmhg未満、下が80mmhg以上、という目安になっています。(昔と基準が変わって、正常値の設定が高めになりました。これもおかしな話ですけどね。)
この正常値から外れると高血圧とか低血圧とか症状名が付くわけです。因みに高血圧は上が140以上、下が90以上です。まあここまではいいんです。
ただ、この数値だけを見て
「140を超えました、ハイ!こうけつあつ!!!残念!降圧剤決定。一生飲み続けますー。」
ってなったりもするわけです。
問題は140を超えた血圧値をどう判断するのか、ということです。
血圧って読んで字のごとく血液の圧力のことです。心臓と動脈で血液を身体の隅々まで届ける時にポンプのように圧力が必要なんですね。ポンプ圧を高めて速やかに必要な場所に必要なだけ血液を届ける。そのような機能が生き物には備わっている。素晴らしい!
この血圧調整機能はよくできていて、例えば運動時に筋肉が多量の酸素を使用すると、その使用した酸素を速やかに補うべく血圧と心拍数を上げてわっしょいわっしょい血液を送り込みます。このわっしょいわっしょいな時は血圧高いです。上は180を超えたりもします。
でもこの180だけを見て「やばい、高血圧だ!」とはなりませんよね?
それは運動してる時だから上がるのが当たり前、と理解してるからです。そして運動をやめれば血圧も心拍も落ち着いてきます。
この場合、本質をみるってことは仕組みを知ろうとするということで、仕組みを理解してると180の数値に動揺しないわけです。不安にならないわけですね。
この血圧に限って持論を言わせていただくと、わたしにとって血圧というのは消防車の水を出すポンプと一緒で、消火には水圧が必要。より高い建物の火災を消火するには水圧を上げてより遠くにより大量に水をおくらなければならないはず。その火災状況によるのでしょうが早く消すためにはより強く水をおくるはず。
そして消火が進めば火はおさまってくるので水量も減らすし水圧も減らすはずですね。
つまり何が言いたいかというと、身体が治したい場所(自覚症状の有無は関係なし)が火災現場で血圧が火消しだということ。治しておくべきところにはなるべく多く血液に栄養や酸素、修復するための材料を送りたい。また、患部からはなるべく余計なごみなどは早くどかしたい。そのためには血液の循環が必要なのではないかってこと。そしてその循環には血圧が必要なのではないかということ。
あくまでも持論なのですが理に適ってると思うんですよね。高血圧のリスクで血管の破裂がありますけど、あれは高血圧が原因というより血管の硬化が問題だと考えるわけです。ホースを治さなければ火災現場まで水が届かないですね。水圧あげれないから。
動脈硬化の原因を治すために血圧を上げてそちらの原因の箇所に血を送る。そういう風に身体はできてると思ってます。
必要だから血圧が高いんです。でも数値だけをみて闇雲に降圧剤を常用すると血圧が下がるんですが身体自身が治したいところに血液が行きづらくなる。薬で血圧を下げられた身体はもっとポンプの力を増やして患部に血液を送ろうとする。それで血圧が上がる。その数値を診てより強い降圧剤を飲む・・・・・というスパイラルを長期間続けると心臓肥大を起こすようになる。薬で下がった血圧を補うために心臓が強化されてしまっているんですね。そのような患者さんの背中は心臓の裏あたりの背中の筋肉が膨れて硬くなっています。
上記は血圧に関しての持論ですが、とにかく理にかなった身体の仕組みを理解しようと試みる、というスタンスがとても重要だと考えるわけです。今のこの苦しみ(症状)には一体どんな意味があるのか。
熱が出る。下痢をする。咳をする。腰痛になる。頭痛になる。不安になる。・・・
症状というのはただ単に苦しいだけではなく、実は自己治癒機能の働きの結果だというふうに考えた方がいろいろ辻褄が合うと思います。脳に疾患があって頭痛になったとして、頭痛を単に止めればいいのか、それともこの頭痛は何かのサインなのかな?と考えてから薬を飲むのでは全然ちがうと思うんですよね。
個人的には頭痛というのはやはり何らかの形で脳神経系に負担がかかっている現れだと考えてます。肩こりが頭痛の元になっていたとして、肩こりがとれて頭痛がなくなれば、肩こりがなんらかの形で脳神経系に負担をかけていて、その負担を解消するために頭痛というサインを出していたんだな、と思うわけです。
例えばですが、肩こりが原因で脳の血流量が減ったとします。脳というのは身体の中でも超重要な器官ですよね。ここにダメージを受ければ身体全体の機能に関わります。常に潤沢な血流を確保されてしかるべき器官です。その器官が肩こりのせいで血流量が減少したとしたら大事です。他の部位に優先して血流量を確保しなければなりません。その血流量確保の為に頭痛を起こすのではないか・・・。
身体は優先して治したいところに強い痛みを起こして血流量(治癒力)を確保する機能が備わっている、という考え方です。
ですから闇雲に痛みだけを消すというのは身体の治癒システムの運営の邪魔になるような気がします。痛みは辛いですが痛みだけ消すというのは危険な場合もあるのではないか。そしてそれは痛みを含めた症状全般に言えることではないのか、ということです。
自覚症状 = 悪い事
ではないということです。症状は辛いけど。
現代は医療も簡単に情報が手に入りますが物事を穿ってみるというスタンスでないと結果的に薬漬けになるような気がします。
「自覚症状から早く逃げたい。痛いの痛いの飛んでけーー!」
ばかりやってるとおかしなことになっていきます。
自覚症状を消すことと病気を治すことがイコールではありません。辛いけど(笑)
手背センサー(術者側)の役目 2
こんばんわkarada89です。
前回の
【手背センサー(術者側)の役目 1】
ここで書いたセンサーの役目についての続きです。
FTを使用しての臨床の場合、FTというのは検査機器だと考えるわけです。検査機器のはじき出した情報を解析・分析・診断をして治療方法を決定するわけです。だから検査機器の情報が不正確であったり統一性がなかったりすると治療方法に誤りが発生する原因となってしまいます。
いかにFTの感度と精度を高めるか、というのがFT使用者の修練の目的であり課題でもあると考えています。
そのFTというのはセンサーとテスターという役割をそれぞれ片手づつに課します。FTを練習した結果、このセンサーとテスターの感度と精度があがるのが望ましいわけです。
ここでセンサーをとりあげると、センサーはいくつか種類がありますが、病気の情報によってその都度センサーの形(手の形)や当て方を変えます。
例えば手掌で感知できなかったものが手背で感知できる、とか、患者さんの体表に接触して感知できなかったものが触れないでFTをしたことにより感知できる、とか。
つまりセンサーの感度をいくら高めてもセンサーの種類が違っていれば感知できない反応もあるわけです。今回の表題で言いたいのはこのことで、患者さんの体表から出る病の反応とそれに対応するセンサーの種類の定義というものが実はまだ定まっていないんではないのかという事です。
前回、例として経筋病を捉えることにフォーカスしましたが、そのとき使用したセンサーの分類を試しにしてみると
1 a 手背 or b 手掌
2 a 音素をイメージする or b しない
3 a 接触 or b 非接触
上記のように3分類6種のセンサーが個人的には考えられます。
実際臨床で上記の分類を使うとして、患部の反応を診る時
手背を接触させながら「ボウ」(音素)をかける、とか。
手掌を接触させないで音素もかけない、とか
手背を接触させないで音素をかける、とか。
病気の反応が違えばこのように組み合わせが変わるのではないかと。
試しに上記の3分類に考えられる病気の反応を当てはめてみると
1 冷えとそれ以外
2 経筋かそうでないか
3 急性か慢性化
または
1 陰気か陽気か
2 冷えかそれ以外か
3 経筋か経脈か
など。
いかがでしょうか。個人的にこう考えているだけでみなさん問題にもされてないかたもいると思います。
東洋医学は陰陽論なので裏と表、光と影、内と外、上と下、動脈と静脈、理性と感情...と常に二面性や矛盾を肯定している医学だと思います。むしろ矛盾がこの世に実在するための大前提!と言ってるようにも思います。矛盾万歳!!!!みたいな(笑)
センサーも常に陽と陰みたく対になってる病邪をとらえるために相対する2つの種類のセンサーを1分類としていくつかあると思ってます。
手背センサー(術者側)の役目 1
こんばんわ karada89 です。
FT をやっていて診断に使うセンサーのお話です。
過去に私が東京FT塾で習った時点では、施術者側のセンサーは大きく分けて
・S1
・S2
・S3
に加えて
・奇経診断部のセンサー
・経筋のセンサー
・経脈を感知する親指を除いた4本指をそろえるセンサー
の六つでした。
そこに手背センサーという名前のものはなかったです。
医道の日本のFTの記事を読んだりして新たに得たセンサーがあり、その中に手背センサーというものがありました。
その手背センサーというものは論文によるとどうやら 「寒」 に反応するようです。
手背側というのは陰陽論でいくと 陽 ということらしく
手掌側というのは反対の 陰 になる、という事みたいですね。
寒邪というのは外邪の中の一つで冬に発生しやすいものです。現代ではエアコンや冷蔵庫などが発達したため、現代人というのは常に寒邪に侵されやすいとか。
で、陽である手背というのが寒邪に敏感に反応しやすい性質をもっているらしく、患者さんの症状に寒邪が関与している場合、この手背センサーでその有無を確認し治療するということです。
東洋医学原論をよく読んでみれば、FTの習得方法の一つにコップの中身がお湯か冷水かを当てるというものがあって、冷水の場合手背センサーで st になるみたいなことが記載されてますね。手背は陽なので、陰の性質である冷水の気は陽を傷つける、故に害になるので st になる、ということらしい。確か。
(めんどくさくて後述するかわかりませんがこの定義も疑問)
なので私もそのころは
寒邪には手背センサー
と思い込んでました。今も頭の端っこにはそういう認識を留めてあります。
そこでですが。FTの診断法のなかにイメージ診断というものがありまして、これ、みなさんご存じな方もいらっしゃるとおもいますけど。
術者がイメージしたものが患者さんの体内に存在していればFTが st になるというものです。
患者さんが風邪をひいていれば、施術者は頭の中で「風邪」という文字をイメージしてFTをすると st に.なるという個人的にはワンダフルな現象が起きます。O-RING TESTとかやってない人は到底理解できない現象ですよね。
イメージするのは私の場合もっぱら文字ですが、絵でもいいし写真でもいいし、なんなら物でも音でもいいんです。
このイメージ診断はO-RINGテストでいう共鳴現象だと思います。この共鳴現象というものが存在する、と確信した上でFTを使っていますが、これであれこれ文字の共鳴を調べてみるとですね、先ほど記述した寒邪ってのが怪しいんすよ。
寒邪は手背センサー
ってやつが怪しい。
臨床で寒邪という文字を頭に浮かべてFTをすると st になる時は確かにあります。
しかし、それは手背センサーで st だったところに寒邪という文字で必ず共鳴現象として認識できるのかというと個人的にそれはないです。
つまり・・・
手背で st = 寒邪がある
ではないってことです。確定ではないんですけどね。
話は少しズレますが、FTを習いたての頃教えられたこと、もしくは論文に書いてあることになんか一貫性を感じ取れなくて困惑していることがいくつかありました。しかし
自分はまだまだFTが下手だからこんなことに疑問をもつなんておこがましい!
とかわけわからない形で思考を封印して疑問を晴らさずに放置してました。もっともその疑問を晴らすだけの能力と自信と準備が全く整ってなかったからなんですけどね。その困惑しているいくつかのひとつにこの手背センサーがありました。
例えば
経筋の証を手掌診断で確認するために、S2もしくはS3のセンサーを相手の手掌にあてながら「ボウ」という音素をイメージします。
「ボウ」で st が強くなる場合、次は手背センサー(講習会ではこの名前ではなかった)で親指を除いた4本の指をまっすぐ伸ばしそろえた状態で、指先を患者さんの頭の方に向けて顔面と胸部と鼠蹊部あたりにある経筋診断部にあてFTをして st かどうかを診断します。
上記で st なら、さらに手足に流れる6本づつのどの経筋に異常があるかを調べていきます。このとき使用するセンサーは中指の手背側を使います。手の形はファ〇クユーみたくなるかも。
治療は焼鍼を使って経筋の流注に沿って手足の末端から中枢に向かって接触していく・・・
ここで疑問、は俺だけ?
なぜ手掌診のときはS2などのセンサーをつかって音素をかけるのに、その次の診断では手背センサーを使用するのか?
経筋が寒邪に侵されているとして、手背センサーを使うのは理解できる。加えて手背を接触させて診断するのは経脈でなく経筋を捉えるためなのか?とも推測する。
でもそれならば「ボウ」が経筋の音素というのはどうなるのか?患部にS2センサーで「ボウ」をイメージしても良いのではないか?または手掌に手背センサーを接触させて診断してはいけないのか?手掌と患部で感知できる反応に統一性を求めてはいけないのか。
そして【S2センサーで「ボウ」の音素の診断方法】が【寒邪に侵された経筋】を捉えているとしたら【手背センサーで患部に接触させて捉えているもの】というのはなんなのか?逆に【手背センサーで患部に接触させて捉えているもの】が【寒邪に侵された経筋】を捉えているとしたら【S2センサーで「ボウ」の音素の診断方法】でとらえているものはなんなのか?
どちらも【寒邪に侵された経筋】をとらえているというのなら診断方法に混乱をきたすだけだと思うのだけどどうだろうか。ここに一つの一貫性のなさを感じた。
ここだけ見て入江式FT診断方法全体をひっくり返すわけではないが、手背センサーの感知するもの、手掌センサーの感知するものが一定しない。また「ボウ」という音素が経筋というのも確定できない。もしかした「ボウ」は 寒邪に侵された経筋 でなくてただ単に 寒邪 を感知しているのかもしれないと捉えることもできるはず。
ある論文では
手背センサーで「ボウ」は寒邪による経筋病
手掌センサーで「ボウ」は熱邪による経筋病
熱邪による経筋病は入江先生はドライアイスで処置してましたね。
この論文だと確かに手背センサーは寒邪と定義できるし、「ボウ」は経筋病と決めることができる。
しかしそうなるとFT塾で習った 手掌センサーを使って手掌診で「ボウ」のやり方は熱邪の経筋病の診断になっちゃうじゃん!手掌診では熱邪を捉えて、患部では寒邪を捉えるの?おかしくね?
とおもうわけです。
あとそもそもの話になっちゃうので混乱させてしまうかもですが。
FTって共鳴現象の側面があるじゃないですか。先ほど記述した 手背側は陽 として手背センサーを使用した場合、手背は陽だから陽性のものと共鳴現象を起こす可能性はないのか?とも思うわけです。それがあるから手背センサーは寒邪を感知する!との定義はなおさら疑問なわけですよ。
ここまで書いておいてなんですが、あれこれ今までの知識を疑って、臨床で試行錯誤して検証して、患者さんが一番効率よく治ったときのやり方や方法論が正解ってことですよね。
もしどなたかアドバイスなどがありましたらコメントいただけると嬉しいっす!
え?タダじゃ教えない?
気持ちの問題。それが重要じゃない?
こんばんは、karada89 です。
わたし、子供のころよくファミコンで遊んでいたんです。その世代。ドラクエ1とか2とか大好きでした。友達とどのくらい謎を解いたかって話でもりあがってました。
TVゲームって結果がでるから超楽しい( *´艸`)。結果が出るように作られているから楽しいです。ある意味踊らされてるんですけど。
きちんと上手くいくための手順とか道筋とかうまくいった時のご褒美とか全てが用意されている。どうしたって上手くいくようにできてるんだからこれ楽しい!ストレス解消になる。
ただRPGなんかは、クリアした後今までの苦労も全部クリアされちゃうのでなんか時間を空費した感覚になっちゃう。「あ~。いままでの時間はなんだったんだろう」って。
TVゲーム全般がそうではなくて、たとえば友達と対戦するゲームなんかはそんなことないし、いまのスマホゲームも通信で誰かとつながったり共通の話ができたりするのはやっぱり楽しい。
そのゲーム自体が楽しいのにプラスして誰かとつながっているってのがゲームをやって虚しさを感じないコツなのかな。
たぶんゲーム会社もそのへんの事をわかって作ってるんだろうなって感じる。すごいよね、ゲーム会社って(笑)
上手くいくことをやってる時はやっぱ楽しいし自信とか優越感とか俺スゲーって感覚になれる。
逆に上手くいかないことやってると俺ダメってなる。
でもさ。自分が好きなことやってる時って上手くいっても簡単すぎるとつまらなかったり、逆に上手くいかない時に燃えてきたりするよね。
これが好きなことかあ、っておもうわ。わかんないけど。
そう考えると今の仕事って・・・微妙(笑)
この微妙ってのがわかんなくしてるよね、自分の感覚を。
心底嫌いだったらとっくにやめてるんだろうしね。
続けてるってことは、まあ、まあまあ好きなのかな?
わっかんなーい。
いろいろ治療技術的に、「発見したかも!!!!」って瞬間は楽しいし、それで治ったらハッピーだし。
でも治らなかったら凹んでるしね。ってことは好きな事じゃないのか?
上手くいきそうだから、結果がでそうだからやる。
上手くできなそうだから、結果がでなそうだからやらない。
ってのは別に悪い事ではないと思うんだよね。でもなんていうかなあ。なんていうかなあ。なんていうかなあ。なんていうのかなああああああ。
なんかパッとしない。
なんか輝かない。
なんか、暗い Σ(゚Å゚)
だから、俺ってば暗い。根暗(^▽^)/
どんまいどんまい。
感覚って 3
こんばんわ。karada89 です。
治療をしていて、
「お!これはよくなりそうかも❤」
って手ごたえを感じる時、それは詰まったものがとれてスッキリする感覚みたいなことを前回書いてみました。
これって自分の身体を治療して気持ちよくなったり、考え事をしていてなにかに気付いて気持ちが楽になったときに自分自身にもすごく感じる感覚。スッキリしてつきものが落ちるというか。自分だとそれがよくわかる。
この感覚って本来健康なら常日頃感じてる感覚なのかも。そうしたらもうただ呼吸してるだけで幸せじゃん!て思います。生きていることが気持ちよすぎ!ただ存在してりゃいいんだから笑っちゃう、くらい気持ちいい。これが幸せ感?
私はこの幸せ感を治療で再現できたらいいなと、いろいろ試行錯誤している部分があるんだと思っていて、しかもそれは他人の為ではなく自分の為にやっている。
昔から得も言われぬ不安感に襲われたりすることが時々、いや、しょっちゅうあって、いろいろ原因を考えているけれど、それが過去の出来事なんかな~、体験によるものなのかな~とかいろいろ考えたりするけど、それとは別にごくまれに妙に調子いい時はすごい安心感に包まれている時もあるわけで。調子がいい時ってなんで調子がいいか考えないし。
ということは精神的とか心理的以外に、身体の調子によるところもあるのかなと。
そんな症状がとれないかなあって自分のために治療している。
心理学的に調べればいろいろそれなりの原因や要因が見つかるんだけども、解決方法はあまり大したものは見つけることができない。
話はそれるけど、日々仕事で治療していると診断上、原因っていうのを考えるんだけども、原因には原因があって、その原因には更に原因があって・・・・っていうのを延々くりかして本当の原因て何?ってなる。
そもそも原因なんてあるの?なんて身も蓋もない事まで考え始めたり、そもそも原因と結果の思考法そのものに問題があるのか?と感じ始めたり。なにか「そもそも」って前提をひっくり返さないと病気のことなんてなにもわからんような気になってる。
ん?ひっくり返す?
え?ひっくり返す??
ひっくり返しちゃう???
原因と結果をひっくり返す?え??????逆なの?
逆なの?もしかして逆?ていうか
逆????????????????????????????????????
( ´゚д゚`)エー
てそんなひらめきがあってですね。
そこからさらに閃いて、ひっくり返したのをまた元にもどしてもいいじゃねーか? と!
原因と結果とかって、上と下みたいなもん?
どっちが最初とかあんまりかんけないとか?
どっちでもいいのか?
どっちでもいいのか?
それでいいのか?
てなるとですよ。
病気になる ➡ 不安になる
健康になる ➡ 安心する
これを
不安になる ➡ 病気になる
安心する ➡ 健康になる
でもいいんじゃね?
ついでに
ホッとする ➡ 安心する ➡ 健康になる
つまり
幸せ感 ➡ 安心感 ➡ 健康になる
ってこと。
で、この左から右へ向かう矢印は逆向きにしちゃってもいい。どっちが本当とかなくて、どっちもだしどっちでもいい。
この矢印の向きを逆にするのはきっと因果関係で考えてることになんでもあてはまるんじゃないかなと。その時々で自由に矢印を変えちゃっていい。というか勝手に矢印を決めてんのはその人の思い込みかも。
風邪をひいてしまって ➡ 熱がでる
を
熱を出すために ➡ 風邪をひく
にしちゃってもいいんじゃない?だめ?
ご飯を食べるから ➡ 太る
を
太る体質だから ➡ 食べたくなる
煙草を吸うから ➡ 呼吸器が悪くなる
を
呼吸器が悪いから ➡ 煙草を吸いたくなる
で、身体が悪くなると不安になる。不安になるといろいろ考えちゃう。
不安になるといろいろ考えちゃうのは身体が悪いから。ってことはその今いろいろ考えてる原因は実は身体がただ悪いだけってのも有り。それが正しいのか間違ってるのかわからない。わからないから正解はなくて、ただその
思い込みの矢印の方向
はただの思い込み。それに気づかないのが病気。その感覚に気付かないのが病気。
おそらく気付いた瞬間に、おそらくその感覚が分かった瞬間に病気は減っていく。なかったことになると思う。
この文章を読んで理解してもダメ。感覚。感覚。感覚。感覚。感覚。感覚。感覚。感覚。
この矢印の向きをかえられない理由をどうしても探しちゃう。知識で探しちゃう。ググっちゃう(笑)
感覚って 2
こんばんわ。karada89 です。
前回の続き
感覚でエネルギーの種類を分けることができるとなると、それは FT で可能なんだろうか。
FT って人間の五感のうちの触覚なんだけど、ずーっと FT やってるとなにか触覚以外の感覚もわかってくる、ような気がしてる。FT がそういう特性をもっているというよりも FT を毎日やってると元々備わってる感覚が研ぎ澄まされてくるような感じ。呼び起されるとでもいうのかな。
で、その呼び起された感覚って五感のどれかというと、もうそれはわからない。第六感といわれるものなのかもよくわからない。第七感かもしれないし第百感かもしれないし。
とにかくなんか感じる。
とにかくなんか感じている数ある感覚の一つに うんちがお尻の穴を通過している最中のあのような感覚ってのがある。わたしの場合だけど。
で、それはどんな時に感じるかというと、患者さんの症状がまだ取れてない、もしくはこのまま治療を終了しても回復しないだろうっていうとき。うんちが通過してる感覚といっても臨床中に実際自分のお尻に感じてるわけじゃないんだけども。
うんちがスッキリ出きってしまった感覚なら改善するなと思えるんだけど、まだ直腸に残ってる感じだとあまり治療成績は良くない。詰まってる感。
この詰まってる感は何が詰まってるのかというとそれはわからない。「気」なのかもしれないしそれ以外なのかもしれないし。
ちなみにこの詰まってる感じは sm と st とは関係ない。
st でも詰まってる感がなければ良くなっていくことが多い。
感覚の話が個人的なものであるので、うんこが詰まった話はとりあえずおいておいて・・・・
感覚って、極端に言えば自分だけのものだと思う。
カレーライス食べて
「これちょーうまくね?」
「うんうん!すげーうまい!」
って瞬間、同じ感覚になってる気がするし、そういう状況だとなにか相手と一体になれたような感覚になるけどこのカレーがおいしいと感じてるその感覚はみんなその人だけのもの。
このそれぞれの感覚を正確に「こんな感じ」って他者に伝える事ってできるんでしょうか。
伝えるとなると伝えたい相手に自分と同じ事をさせて体験してもらえばいい気もするけど、やっぱり人それぞれ感じ方は違うわけで。
自分で何言ってるのかわからなくなってきた(笑)
治療に関してだけど、この感覚というのを可能ならば、文字にして文章にして、そして FT とリンクさせたいと考えています。そして他者に正確に伝えることができるようにしたい。
FT っていう技術(ハードウェア)身体に覚えさせて、一方で診断学(ソフトウェア)を頭に叩き込み、そのハードとソフト両方を臨床で使い、そこで感覚を養っていく、それをソフトウェアにフィードバックして上書きしていく。
ハードウェアはその人の感覚ではあるんだけど FT という技術が感覚を養う入り口になっている。そしてその技術の内容は sm(スムース)と st(スティッキー)の二種類でありそれもわかりやすい。sm st って感覚でありながら言葉で伝えやすいんじゃないかな。