身体(karada) hack

「治してやる!」 から 「なんか治っちゃう」へ

FTの可能性

こんばんは。karada89です。

 

入江式FTを使用しての治療は相変わらず継続してますが、以前に記載していた「stとはなにか」あたりから技術的なことはほとんど進展していませんでした。

 

実はただのFTの習得不足なのではないかとか、stは病と治る力のせめぎあいという定義がそもそも違うのではないかとか、そもそもFTはどうなのよ、とか、もう自分を支えて来てくれた技術そのものを否定したくなるような精神状態でした。

 

それが最近、新しいセンサーの種類の発見をしたのではないかという出来事があり、それを手当たり次第に試しているのです。そのあたらしいセンサーを見つけられたかも知れないことで、今までの入江式診断方法も改めて有効なのではないだろうかということも再発見できそうです。

あたらしい発見をしましたが、それが治療成績につながらないとただの自己満足になってしまうので、またしばらく試行錯誤してみて手ごたえを感じたらいろいろここで文章にしてまとめたいと考えています。

本当にもう駄目だ、と思えた先に何かが降りてくるって解決法もあるのかな(笑)

 こんばんわ。karada89です。

 

 

 最近全く記事をかけずにいました。書かなかったわけではなくて書けなかったんです。これは書けるぞって思えるようなものが無かった。

 

 治療に行き詰ってまして、精神的に疲労困憊でありました。どんだけ疲労困憊かというと、「もうこの仕事嫌だな。やめてー。」って位。

 普段からそんなに大好きでやってるわけではないので、臨床なり研究なりで結果が出ないとつまらないんですよね。そうなると余計に好きじゃなくなる。

 やっぱりやっててお客さんに自信をもって診断や治療方針、予後や生活指導を言えないっていうのは、お金をもらっている以上、詐欺に近いんじゃないかと考えてしまいます。

 そして、診断に自信を持てないと、治療院経営も治療から慰安にスライドしていき気味になるので、それは自分としては非常につまらないし避けたい部分なんですね。

 自分のなかで慰安というのは治療ではないと思っていますし、診断を磨く意味がなくなってしまいます。お客さんにしてみれば意味があることだとは思いますが、慰安行為はなにも施術するのは私である必要がなくなります。別の誰かがやればいい。

 

 と、いきなりネガティブな感じで始まりました。

 記事に投稿するのに一歩でも二歩でも進化を自分が感じ取れてればなんとか文章にしたいなと思うのですが、研究的に一歩進んで二歩下がるを繰り返していました。まあ、それが試行錯誤というものですが、次のステップに進めてる感というのを感じるほどには全く至っていませんでした。

 

 

 ところがここのところ花粉症で苦しんでいまして、それをどうにか治せないものかとその試行錯誤して新しい発見をしたんです!というほどではないですが、以前から記事にもしている「ST」について少しだけ次の扉を開けるかも?みたいになりそうな気がしたので、ちょっと頭の整理を兼ねて書いてみようかと。

 

 

 stとはなにかシリーズであーだこーだ書いてあることを臨床を通して検証しているのですが、今まで書いてきたことは「やっぱり正しかった!」というのと「自分の技術不足からくるいいわけかも・・・」の狭間で行ったり来たりの繰り返しのこの一年間。

 で、今書いてるこの瞬間は「やっぱり正しかった!」の思いで書いてます。

やっぱり正しかったと思えるのは一体どういう経験からくるのか、これからまとめながら書いていきます。

 

 

  入江式FTではstを感知できないと診断も治療もできないので、治したいところにstを感じ取れるようにするのが課題。

 

その感じ取れない原因は施術者側の問題ではないのか?つまりそれは技術の熟練度の問題。もしくは体調の問題など。

 技術は訓練するしかないし、体調は整えるほかない。仮にFTをやる素質がゼロだとしたらそれはもう治療自体をあきらめるが、そこは素質がゼロではないと信じ込むことにする。

 次に。

 stを感じ取れない原因が患者側にあると仮定したとき。

まず、「患者の回復力が落ちている状態ではstを感知しづらいのではないか」ということ。つまりstは病邪と回復力のせめぎあいの結果なのではないか、ということ。これは前にも述べた。

 

 この回復力を高めて病邪と戦う力を促進させるということに散々力を注いできました。そしてある程度は成果があったように思うが、なかなか「回復力を高めるための施術の診断」、というものが安定しなかった。

 お灸をしてみたり、原因を脊柱に求めてみたりいろいろやってみたが、お客さんと私の双方が満足する結果は得られなかった。それに症状をとる治療と回復力を上げる治療をやると、どうしても時間が足りずイライラしてしまう。

 

 

 正直、お灸はやけどの管理が大変だし、電子温灸器はコードの絡みがイライラするし、端子を体表に貼ったり剥がしたりがとても大変。

 脊柱に原因を求めてみたが、どの脊椎を矯正すればいいのかを診断するにあたって私の場合はFTをつかい検査する。その検査の結果あたりもすれば外れもする。安定しない。

 

 

 

 何をやっても安定して結果がでない。ただよくなることもあるのでまるっきり見当違いでもない。イライラと不安が常に付きまとう。

 

 でも落ち着いてみるとやはり考え方というか方向性は間違ってると思えない。いろいろ新しい発想が生まれて試してみて、多くは失敗して、でもその都度反省して帰ってくる考え方はやっぱり・・・

 「身体の回復力を高めて病邪と戦う力を増幅させる。(正確には元に近づける。)その結果の反応としてFTにてstを感知できる。」

というところに戻ってくる。

 

 

 回復力を高めて患部にstを出現させる。そのための消すべき治療点のstをFTで探す。

 

 では先に消すべきstはどのように感知するのか。回復力がないとそのstすら出現していないのではないか?もしそうであったらFTの性質上どこから攻めればいいのだろうか?

 そんな絶望感に襲われそうになりながらふと、新しい何かが天から降りてきました。

もしかしたら突破口になるのか?これで自分の仮説が正しいと思えるのか?

 

 ここから背部兪穴を利用した診断法の構築と治療前の本治療というべき施術を試行錯誤する旅が始まります。やれやれ。

FTを続けているわけ

 こんばんは。karada89です。

 

 私がFTを使って治療にあたっている理由というか、FT以外をあまりやりたがらない理由というか、そういうのがありまして。

 

 

 入江式FTっていうのはやっぱり私にとってハードウェアなんですね。検査機器とでも言いましょうか。その点レントゲンやMRI、超音波や血液検査などと変わらないわけです。

 検査機器で調べて画像や数値がはじきだされる。それを診て状況を判断する。検査機器で出た結果は判断材料の一つというわけです。ですので検査結果だけを見てそのまま何かがわかるわけではないんですね。もしわかるとすればそれは診てる人が医学を勉強しているからです。まああたりまえですよね。

 

 まず医学がある。できればその医学が体系だっている必要がある。その医学の中に診断と治療がある。

 そして西洋医学であっても東洋医学であっても解剖学や生理学があります。病理学もあれば臨床学もあります。栄養学も養生学もあります。つまり身体の仕組みをそれぞれ違う視点で説明しているってだけでやっていることは同じなわけです。

 どちらの医学が優れているかというのを言いたいのではなくどちらも医学としての構造があるわけです。

 

 どちらの医学も身体が正常な状態と異常な状態を説明していて、どっちの状態でも身体がそれぞれどうなっているか説明してます。正常でも異常でもその時の状態を検査機器で調べるとそれぞれの状態が結果として検出できます。そして異常であればその異常を正常にする、または正常に近づけるような治療をします。

 治療家としての能力は検査した様々な結果からどういう治療が一番効果があるのかを読み取ることだと思います。そこには失敗もあれば成功もある。成功にも度合いがある。

 

 医学と言われるものにはこうした学問や学術をベースとして、診断(検査)から治療、そして効果の確認という流れがあって、見方の違いはあれど治療にあたる際の大まかな流れは一緒だと思います。

 診断が決まらなければ治療方法も決まらない。誤診があれば誤治がある。その原則は一緒ではないかと。

 

 もし誤診・誤治があったとします。しかし医学として構造をなしていれば、何が誤診・誤治の原因について議論・検討することができる。そしてそれを次の治療に生かすことができる。それが医学の発達につながる。

 

 西洋医学のポテンシャル。東洋医学のポテンシャル。それぞれ限界はあると思いますが物事を解決しようとする姿勢が感じられます。

 西洋医学は科学の進歩が医学の進歩になっている。東洋医学は人が持っている感覚を上手く使っていると思う。

 科学の進歩が、感覚の発達が、それぞれの医学に貢献していると思うし、より高度な医療へとすすむ武器となっていると感じます。

 

 

 私はFTという感覚を使う診断技術を駆使して東洋医学を使用しています。FTというハードウェアを使って東洋医学というソフトウェアを走らせています。

 

 ハードも優れていると思っているし、ソフトも宝の山と信じてます。

 

 ハードを向上させればソフトをより深く読み込むことができるし、そうなればより深い病気も治せるはずだし誤治も減らすことができると思ってます。

 

 

 

 このハードとソフトという考え方というか体系というか。

 

 こういうものがないと自分のやっていることや今いる現在地や治療成果の程度などが推し量れないと思うんです。

 

 なんといったらいいのか・・・。

 

 例えば、

 

 

 

 知り合いが背骨の矯正のみで施術しています。評判はなかなかいいみたいです。それでもその知り合いは悩んでます。なかなか治せない。なかなか治らない。と。

 

 

 別に珍しい話ではないですけどね。すべてを治せるわけではないのだから。

 

でも、治したい。

 

 

となった時にどう解決するのか?自分のやり方をどう改めるのか。どこにどんな問題があるのか。それをどうやってみつけているのだろうか。といつも疑問に感じてます。

 

 矯正そのものは素晴らしい効果を発揮します。個人的に体感してますし。施術者側もその効果を知っているでしょう。

 しかし時にはもくろみ通り効果が出ないケースもあるはずです。その際何かを見直さなければならない時、今までのやり方で治らなかったとき、特に今までの診断方法が通用しなくなったときは診断理論を見直さなければならないと私は考えます。そして時にはその診断理論のベースになっているその医学の法則を見直そうとするときもあります。

 

 西洋医学の医者ではない私は病院で使う検査機器は使えないので、どうしても手の感覚や患者さんの話から情報を得ることが多くなります。

 脈や血圧、体温などは図れますが病院での検査に比べれば微々たる情報。それでも重要な情報ですが。そこにFTという診断技術をもちこんで、そして東洋医学を利用してどうにか自分なりに体の情報を集めようともがいてます。

 

 感覚だけ、もしくは知識だけ。

 

 それだけでは私はここまでもがけないです。時に東洋医学の知識にたより、ときにFTという感覚にたより・・・いまのところ沈まずに泳いでます。

 

 ソフトとハード。知識と感覚。東洋医学とFT。

 

そういう組み合わせでもがけるからこそFTをやめられないのかもしれません。

 

ほかにもっと簡単な方法があればいいんですけどね。

 

 

 

心持ち

 こんばんは。karada89です。

 

 臨床は相変わらず頑張っています。治そうと思って治らなかったり、こんなんでは良くならないよな、って思ってたら翌日結果が良好だったり。

 

 治そうと思って治ったものは検証としてはよく、治療行為としてもよい。

 

 治るはずと思って治らなかったものは検証として気づきを与えてくれるが、診断ミス。

 

 治るはずがないと思って治ったものは新たな領域への一歩の可能性。

 

試行錯誤の毎日です。

 

 

 

 

 

非現実的な提案ですが、出来たら超楽しそう!

 こんばんは。karada89です。

 

 

 きょうは妄想です。いや。いつもかな。

 

 

 

 何を妄想しているのか。

 

 

 それは、今やっている自分の治療技術がよりよいものになったら、それを各家庭でだれかが当たり前のようにそれを使って家族を治せるようになること。

 

 もちろんそれは私個人のビジネスのようなものとしても成り立ってほしいが、夢は一般の人々が医者いらずで過ごせること。

 

 一番は誰もが個人レベルで予防する意識をもって病気にならないことが望ましい。しかし人生で全く体調を崩すことなく過ごせるわけはないので、その場合医者にお金を払ってかかるという手段の一つ前に、各家庭で誰かがFTを使用して(別にFTでなくてもいいけど)病気を治す、もしくは軽減することができるようになるのが望ましい。

 

 現代医学はウイルス性や細菌による疾病や外科的な緊急治療において科学の進歩と共に偉大な結果を残しています。

 ただそれは、生き物が健康から病気になり、そして治癒するというサイクルの中で他人が行える治療手段としては最終段階で使用する手段と私は考えています。その一つ二つ手前の段階でもう少し体をよくする方法がないものだろうかと妄想しています。

 

 ちょっと捻挫をしました。風邪を引きました。インフルエンザになりました。寒さにやられました。足がつりました。ぎっくり腰や寝違えました。気分が悪いです。落ち込んでいますなどなどそういうものに対しては、高度な医療機器を必要としなくても治癒に向かわせることができる東洋医学を使った治療で各ご家庭にて解決できるようになれば社会全体において経済的な負担をだいぶ軽減できるのではなかろうか。

 

 言っておきたいのは、自己責任で治療するというのが非常に大事。健康管理は個人レベルや家庭レベルにおいて自己責任で管理するものだと私は常々思ってます。それにより薬に頼らず手術でリスクを負うことなく自分に責任をもって自分で体調管理をできるようになれば、本当に現代医学を必要とする患者さんがもっとしっかり治療を受ける余裕を確保できるのではないか。

 

 

 以前にも書いたが、自分がその仕事をつづけた先の最終目標は、自分の役目が終わること。医療で言えば、治して治して最終的に治す対象がいなくなること。

 

 FTは習えばだれもができるものだから、それが一般家庭レベルで浸透してくれたら私の役目は終わると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

 

 

………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いやあ。妄想にも程があるわあwww。

 

 

 

ま、頑張ろっと。

 

 

治療院が繁盛とか世の中おかしい証拠だね

 こんばんは。karada89です。

 

 世の中、というのか日本だけなのかわかりませんが、巷には多種多様な治療法がありますね。ここでいう治療法という言葉の中にはリラクゼーションと呼ばれるような癒し系も含まれています。

 これだけあふれているという事はまさに生き物を治す方法がわかっていない、ということの裏返しだと思うわけです。そしてそれは即ち生き物というものが解明できてないとも言える。

 

 東洋医学では人を治す方法のランクが大きく分けて3段階あって

 ・薬

 ・手技(針灸含む)

 ・衣食住

上記がその3つです。

 

 この3つでどれが一番程度が高いかというとそれは衣食住で、一番低いのが薬だそうです。

 

 衣食住というのは治療に思えないかもしれませんが、病気の原因が日々にあるとするれば、衣食住を正すというのは病気の原因を減らすことになるのですから、これも予防というか治療になってるわけです。そして衣食住を正すという事自体は身体への負担というか副作用がかなり少ないのですね。

 一方、薬による治療というのは本来の身体にない成分をいれて行う治療だから身体の負担が生じるわけですね。それに薬を飲むくらいの病状ですから医者に行かなきゃいけないし、その時間とお金もかかるわけです。いろいろロスが大きいんですよね。

 みんなが衣食住を気を付ければ医療費も少なく済むし病気に関わる時間も少なくて済むから結局は社会全体の負担も減る事になる。

 

 医療を高めるというのは病人を減らすことで社会の負担も減らす役目があるということですね。

 そのために身体の仕組みをもっともっとわからないといけないんですけど、そんな科学力はまだまだ地球にはありませんね。

 

 からだの仕組みもわかってないし、わからないか病気のしくみも本当のところよくわかってないし。だから病気になってしまったら完全に治してもらうことはまだ全然不可能ってこと。

 そーゆーわけなので、みなさん病気にならないように独自で頑張っていきましょう。

 

 もともとみんな生き物で生まれてきてるんだから。生き物って勝手に治ろうとしてるものだから。それを信じきろう!!!

きっと本当は治療なんて大した行為じゃないと思ってる。もっと簡単なはず。

 こんばんは。karada89です。

 

 最近自分の顔を鏡で見ると齢をとったなあ、と嫌な気分になるんです。齢をとることそれ自体より自分の顔が加齢で汚くなってくるのが嫌なんですよ。肌がかさついてきたり、シミが増えてきたり、つやがなくなってきたり。

 ふと自分の子供の顔をみるとほんとに綺麗で剥きたてのゆで卵の感じ。若さってスゲーわ。

 爺ちゃんちゃんが孫をかわいいと感じるのは子供から生気を吸い取れるからなんじゃないかと以前に思ったことがあるんだけど、どーやらそれは本当の事のようなきがしてならない。小さくて可愛らしいから可愛いのはもちろんだけど、エネルギーをもらえるからただそこにいてくれるだけでもうれしくなっちゃうんじゃないかな。自分の子供でさえも一緒にいると元気になるような気がするから年寄りにとっては元気が溢れている子供はみずみずしくて、乾いたスポンジのような自分が子供のエネルギーで潤っていくんじゃないかな。そんで、じいちゃん子婆ちゃん子は弱いってのも昔からいわれてて、孫は生気を吸い取られて弱くなるんじゃないの?

 

 目に見えない事を言ってるからなーんも確証はないけどね。

 ただ。

 もしそういう外からエネルギーを自分に取り込めるとして、なにもそれは人からだけじゃなく、その辺の空間に漂ってるかもしれないエネルギーを体内に取り入れることができて乾いたスポンジが潤わすことができたらもっともっと力強く病気やけがに負けない身体にすることができるんじゃないかな。

 

 自分の身体だけでエネルギーを作っているんじゃなくて、外から入ってくるエネルギーもあることがもし事実だとして、いったいどうすれば、どういう身体になればそういう事が可能になるのかな。

 おそらく何も意識してなくても外からのエネルギーはみんな取り込んで生きているはずなんだ。何故そう思うのかというと、植物を観ているとそう思う。

 植物は音楽を聞かせたり声をかけたり外の雨にあたったりするとすごく生き生きしてくる。逆に空気が流れないところに置いたり、電子レンジとかが近くにあったり、汚い言葉をかけたりするとどんどんしおれていく。空気・水・光を与えれば確かに生きることはできるんだろうけど、輝く様に生きるにはそれだけでは足りない気がする。

 

 もっと気持ちよく、もっと楽しく、ただただ生きてるだけでワクワクできるはずの身体をみんなもってるはずだから。それをどう加速させていくのか。それをどう治療していくのか。

 きっとそんなに難しい技術ではないと思ってます。施術者側が疲労困憊になって患者が元気になるような治療法ではないと思ってます。逆に治療してあげればあげるほどこっちも元気になるようなやり方が本当なんだと思う。

 それを目指して試行錯誤してます。